大潟村に移住するには、村長の「認定」を受ける道がある|写真家や彫刻家が「入村」した干拓の村

公開日: 2026-10-07
大潟村/移住を認めて、湖の底だった地面を貸す村/① 湖の底に選ばれた人たち/② 得意で入村した人たち/③ 起業まで広がった入口

秋田県大潟村が出している移住者募集の紙には、こう書かれています。「認定審査委員会による審査等を経て、村長が移住を認定します。」「認定された日から700㎡の宅地(大潟村字東3丁目4番地内)を無償貸与します。」※1

移住に要るのは住民票を移す届け一枚で、誰かに認めてもらうものではない。私の頭にあったのは、その程度の移住でした。

ところが、この村では、写真家や彫刻家、機械工学の研究者が、村長の認定を受けて「入村」してきました。1997年に認定された男性は、宅地を花壇とハウスにし、村の2世・3世に向けて「大潟村哲学塾」を開いていました。制度ができて20年のころの文章として、村のページに載っています※2。

では、なぜ干拓の村が、移住を認定してまで、写真家や彫刻家を村に入れたのか。

答えは、全国から選ばれた入植者で始まったこの村が、村を元気にするために、村のことを広く内外へ伝えてくれる人も選んで迎え入れ、いまはその入口を、村で商いを起こす人にまで広げているからです。

この記事では、自治体と国が発表している一次資料を読んで見えてきた、

という3つの柱を、暮らしの数字も交えて解説します。モノサシは一つだけ。この村は「移り住む人の何を見て、村に入れてきたか」。締めくくりに、私の見立てを置きます。

大潟村の始まり|湖の底に6世帯14人で生まれた干拓の村

一つ目の柱は、湖の底に選ばれて入った人たちです。

八郎潟は、かつて琵琶湖に次ぐ日本で2番目に広い湖でした。干拓が進むさなかの1964年10月1日、ここに大潟村が生まれます。事業が終わったのは1977年3月で、湖の底は1万7,239haの新しい大地になりました※3。

村の名前は全国から募り、人口は6世帯わずか14人からの出発だった、と村は書いています※3。

この大地に暮らしをつくったのは、全国の入植希望者の中から選ばれた人たちです。村の歴史のページは、入植者を、干拓の目的である「日本農業のモデルとなるような生産および所得水準の高い農業経営を確立し、豊かで住みよい近代的な農村社会をつくる」ことを担ったパイオニアと書いています※3。2026年の村の計画に寄せたあいさつで、村長は「村創立以来、村民主体でゼロからのコミュニティづくりを進めてまいりました」と書きました※4。

湖の底に生まれた村/1964年10月1日/6世帯わずか14人。湖の底を干した平らな大地と、まっすぐな農道・排水路、遠くの小さな家並み。
図1 湖の底から、選ばれた人の村へ(※5)

村の住所は、方角と番号でできています。役場は字中央1-1、新しい宅地の分譲は西一丁目3番地、空いた土地を生かそうとしているのは東3-4住区。村なのに丁目があります※6。

入植の記憶は、いまも手入れされています。干拓博物館は入植者の体験談などを記録して伝える場所で、2024年(令和6年)には12,954人が訪れました。「入植予定者観覧用」と名の付いた農家の住宅は、登録有形文化財として、次の代へ引き継がれようとしています※7。

入植で始まった町は、北海道にもあります。真狩村には1895年に香川県と福井県から18人(5戸)が移り住み、開村のころ香川県からの移民が多かった縁で、いまも観音寺市と交流を続けています※8。士幌町は、岐阜県美濃市の農民が最初に開墾した縁から、1994年に美濃市と姉妹都市を結びました※9。最初に移り住んだ人の故郷が、二つの町ではいまの付き合いになっています。

大潟村に入村した人たち|得意を認められて移り住んだ彫刻家・写真家・研究者

二つ目の柱は、入村した彫刻家や写真家、研究者たちです。

1993年3月、村は、文化の情報を発信する人を村に招く決まりをつくりました。当時の名前は「文化情報発信者」で、2004年12月に改められて、いまの入村の決まりになっています※10。村の誕生から29年。今度は、田んぼではなく腕や知識を見て、人を村に入れる決まりです。

決まりの第1条は、目的を「大潟村における諸活動に関する情報を広く内外に発信し、もって大潟村の活性化に資する」ことと書きます。第3条は、認定を「議会の同意を得て村長が認定する」と定めています※10。

冒頭でふれた、1997年に3人目として認められた男性は、「17名の募集に現在10名が入村、7名の枠がある」と書いて、応募をすすめていました※2。

2000年4月に認められた機械工学の研究者は、村の年配者がつくったスキークラブ「オールドパワー」の仲間に誘われて、スキーを始めました※11。

中でも、得意がそのまま村の形になったのが、2001年に入村した彫刻家です。前のアトリエのまわりに家が建て込み、電動工具を「自主規制」していたころに、この制度を紹介されたといいます※12。

村に建てたアトリエでは、「電動工具の音も、マキストーブの煙も、木クズの散乱もまったく気にせず」彫れる、と彫刻家は書いています※12。

2009年、彫刻家は村の「大地の家族」像のモニュメントの原型をつくり、建てるところまで手がけました。本人は、この像と2012年の回顧展の両方について、「多くの村民の方々の献身的な協力なしには実現し得ないもの」だったと書いています※12。

その協力の一つを、国の2009年度の報告が伝えています。住民が像を建てる会をつくり、自分たちで募金を集め、作業もして、西5丁目にブロンズ像を建てました。総事業費400万円余りの像は、募金と自分たちの労力で完成しました※13。

得意が村の形になる/2001年に入村/「大地の家族」像。木を彫るアトリエから、村の草地に立つ素朴で抽象的な家族のブロンズ像を望む場面。像は実物の形を再現したものではない。
図2 招いた腕が、住民と村の形をつくる(※13)

2005年3月には、東京の新聞社で報道カメラマンを務めた男性も入村しました。男性は自分の移住について、「かつて大潟村へ入植された方々と通ずるものがあるかと思っています」と書きました※14。

鹿児島県の湧水町でも、移り住んだ作り手の腕が、町の大事な紙を飾っています。大阪市出身で2022年に移り住み、地域おこし協力隊を務めた作家が、町の計画書の表紙の絵を描きました※15。湧水町の表紙と大潟村の「大地の家族」像は、外から来た人の腕が町の顔の一つになった二つの例です。

大潟村でいま暮らす|店を兼ねた家まで広がった入村の道

三つ目の柱は、村で起業する人まで広がった入口です。

2004年に改めたあとの決まりの条文は、入村できる人の一つに「インターネットを利用して村でビジネス活動をするもの」を挙げています※10。2023年12月の募集の紙では、それが「大潟村で起業またはビジネス活動をする方」という言い方になりました※1。

いまの募集の紙の分野は、芸術や学術、村の地域資源の価値を生み出して伝えること、村での起業、国際交流、人のネットワークを生かした活動の五つです。「国籍、性別、職業、年齢は問いません」とあります※1。

2024年2月6日、村民と議員の懇談会に17名の村民が集まりました。出された意見の一つが、この入村の制度の対象者を見直すことでした※16。

2025年2月7日、村は新しい計画のための村づくりワークショップを開きました。3月25日までに3回、「大潟村の良いところ、これから必要な取り組み(課題)を考えてみよう」といったテーマで、村民が話し合っています。参加者の一覧を見ると、保健・医療・福祉の部会に、老人クラブや社会福祉協議会の人たちと一緒に、所属の欄が「大潟村情報発信者」の一人がいます。同じ一人は、計画を審議した会の委員でもありました※17。

同じ秋田県の湯沢市も、2022年に後期の計画をつくったとき、計画を審議する会の委員に地域おこし協力隊の隊員を加えていました※18。

2025年4月の議会だよりによると、村は年に一度、村長と副村長も入って、この制度で移り住んだ人たちと意見を交わしています。議会で村は、「今住んでいる方々は自分がこの制度を活用して大潟村に来たことに対しては誇りと責任感を持っている」と述べています※19。

2025年6月の議会で、議員の問いに村長は、移り住んだ人たちは「得意分野を通じて地域コミュニティの中で活躍いただいており、感謝している」と答えています。近年は新しい申請がないことにもふれたうえで、「店舗兼住宅を認めるなど見直しを図ってきている」と述べ、移り住んだ人の意見も聞いて、新しい計画の中で方向性を検討していく、と続けました※20。

同じ議会で、別の議員は「移住定住に向けた働く場の確保は」と問いました。村長は、西1丁目3番地の新しい分譲地や情報発信者住宅は「店舗付き住宅用地としての利用も可能であり、移住と合わせて起業が可能である」と答えました。見直しを重ねて、入村して建てる家は、店を兼ねた家にして商いを始めることもできるようになりました※20。

店を兼ねた家/2025年6月/村で起業。平らな田んぼの中に、小さな店先を備えた家が立つ場面。特定の実在店舗を描いたものではない。
図3 入村の入口が、起業へ広がる(※21)

暮らしの場面は、入村した人たちの文章から拾えます。村の外周を毎日歩いていると、「この野菜を持っていきなさい」と声をかけられることがある、と入村した人の一人は書いています※14。何のつてもなかった自分を、全国から入村した村民が「優しく受け入れてくれました」と書いた人もいます※22。

私の見立て|大潟村は、移住を認めて地面を貸す村

モノサシに戻して、村が人の何を見てきたかを一行ずつ確かめます。入植のときに見られたのは、田を耕し、農業の手本をつくる力でした。1993年からは、彫る、撮る、調べるといった、村の外へ伝えられる腕が見られるようになりました。そしていまは、借りた地面に住まいと店を並べることもできると村長が答え、村で仕事を起こす力も申し込みの分野に入りました。入植の縁をいまの付き合いにした真狩村と士幌町、移り住んだ作家の絵が計画の表紙になった湧水町、協力隊の隊員が計画の審議に加わった湯沢市。外から来た人の手の跡は、付き合いにも、紙にも、会議にも刻まれています。

私の見立てはこうです。大潟村は、移住を認めて、湖の底だった地面を貸す村です。2026年4月にできた村の計画には、「情報発信者制度による移住と地域活性化を図りつつ、東3-4住区の未利用地活用を図ります。」という一行があります※17。冒頭の募集の紙が700㎡の宅地を貸すと書いた番地も、東3丁目4番地でした。

移住を認めて地面を貸す/東3丁目4番地。干拓地のまっすぐな道と直角に交わる道、区画された田んぼと空いた地面。実際の地番図を再現したものではない。
図4 人の何を見て、村に入れてきたか(※17)

大潟村を数字で見たい人へ|人口・仕事・冬・住まいの支えの要点

村からJR八郎潟駅までは車で20分、秋田駅までは1時間ほどです※23。

項目 数字
人口 2,916人(2026年1月)※24
世帯 1,155世帯(同)※24
村に住んで働く人のうち農業 74.2%(2020年)※25
1月の平均気温 0.2℃(平年値)※26
8月の平均気温 24.0℃(平年値)※26

移住と住まいの支え(2026年10月時点の村のページ)

人口の推移と将来の見通しは大潟村の人口ページに、暮らしのデータは大潟村のページにまとめてあります。助成の金額と条件は年度で変わるので、申し込む前に村の現行のページで確かめてください。入村した人たちの暮らしは、村のページ(2022年11月更新)に載る、2010年代の初めごろに書かれた文章から引いています。

出典リンク集

本文の※番号に対応する資料です。括弧内は資料の頁・年と、確認した日付です。1つの番号に資料が複数あるときは「 / 」で区切っています。

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