最初の23枚は「炭坑の子ども」|田川市に移住して、親子で炭坑の暮らしを知る

公開日: 2026-10-09
田川市/炭坑の暮らしの絵を頼んで集めた市/① 暮らしを絵で集める/② 互いの炭坑を尋ねる/③ 親子が学ぶ。炭坑の暮らしを描いた絵を見る親子の後ろ姿と、窓の外の二本の煙突とボタ山。

図書館の職員が最初に受け取った彩色画は、23枚の「炭坑の子ども」でした。福岡県田川市がまとめた記録には、絵の受け渡しがこう記されています。

まず、23枚の「炭坑の子ども」の彩色画を描き、昭和39年12月2日、永末氏にその絵を渡した※1。

永末氏は、絵の制作を頼んだ田川市立図書館の職員です。

炭坑の歴史なら、石炭がどれだけ採れたか、大きな機械がどう動いたか。私には、まずそういう記録が浮かんでいました。

ところが、図書館の職員は、炭坑で働いた人が描いていた絵に着目しました。筑豊最大の炭坑が閉山した1964年、色を付けた炭坑記録画の制作を依頼したのです※1。

では、なぜ図書館に集まった炭坑の絵が、子どもや海外の人の学びにまで使われるのでしょうか。

答えは、暮らしの説明が添えられた絵を図書館が集め、学芸員が台湾の学校へ届け、博物館が住む親子に実物で学ぶ機会も設けているからです。

この記事では、自治体と国が発表している一次資料を読んで見えてきた、図書館が集めた絵、台湾との授業の往復、親子が学んで伝える炭坑の暮らしの3つの柱を解説します。付録には住まいと仕事の要点も置きます。モノサシは一つだけ。炭坑の暮らしを、どんな形で学べるようにしたか。締めくくりに、私の見立てを置きます。

田川市の炭坑記録画|図書館が暮らしを絵で集める

一つ目の柱は、図書館が炭坑の暮らしを絵で集めたことです。1964年に閉山した三井田川鉱業所は、筑豊地域最大の炭坑でした。その年、田川郷土研究会の「炭坑資料を集める運動」を取り仕切っていた市立図書館の職員が、彩色画の制作を依頼しました※1。

依頼を受けた山本作兵衛氏は、色の見えない坑内を彩色して描くことに当初ためらいましたが、職員の熱意に押されて水彩画に取り組みました。1964〜1967年の制作は、二日に一枚のペースでした※1。

最初の23枚を職員に渡した後も、絵は一定の枚数が完成するたびに図書館へ寄贈されました。描かれていたのは、炭坑の仕事と、そこで暮らす人々の生活です。絵の余白には、解説文も書き込まれていました※1。

図書館へ寄贈/炭坑の子ども/図書館。図書館の机に並ぶ炭坑の暮らしの水彩画と本、窓の外の二本の煙突とボタ山。
図1 図書館へ寄贈(※1)

その解説のもとになったのは、日々の出来事やメモを書き留めた日記、雑記帳、ノートです。これらの書き留めが、のちに絵の解説文に活かされました。市は記録資料としての価値を重く見て、この絵を「炭坑記録画」と呼んでいます※1。

図書館に集まった絵は、1983年に完成した市の石炭資料館へ移されました。現在の田川市石炭・歴史博物館です。のちにユネスコへ提案されたのは、その絵に日記や雑記帳などを加えた697点。市の所有分と、遺族が所有して福岡県立大学が保管する分が含まれ、申請は市と大学の共同提案になりました※1。

2011年5月25日、その697点が「世界の記憶」に登録されました。当時の日本を記した文書は政府や企業の公式文書がほとんどで、一人の労働者による私的な記録は希少だと、ユネスコは評価しています※1。

世界で共有する記録になった絵を、炭坑で働いた経験のない子どもはどう読むのでしょう。その絵を教材にした授業が、田川から海を渡りました。

田川市と台湾の交流|絵を教材に、互いの炭坑を尋ねる

二つ目の柱は、炭坑の絵を海外の教材にも使い、互いの炭坑を教わったことです。2019年11月11日、市の学芸員らは台湾のフォートン国民小学校へ出向きました。かつて炭坑のあった地域の子どもたちは、その歴史は知っていても、石炭をどう掘っていたかは知りませんでした。学芸員は、田川の炭坑の絵を使って掘り方を話しました※2。

絵で採炭の話を聞いた子どもたちは、いつか田川市の小学生と交流したいと話していました。翌12日には、瑞芳高級工業職業学校の約50人の生徒へ炭坑文化を紹介する授業があり、技術を学ぶ生徒たちは、筑豊で使われた炭坑機械の説明に興味深く耳を傾けました※2。

その月には、台湾の新平渓煤礦博物園区の龔俊逸さんら3人も田川へ来ました。29日、猪位金学園の5・6年生約60人を前に、台湾の炭坑や文化を紹介。田川の子どもたちは、台湾の人々へ英語で質問しました。「台湾にも山本作兵衛さんみたいな人はいますか?」「台湾の炭坑にも煙突はありましたか?」※2。

英語で質問/台湾/田川。炭坑の絵と石炭の標本を使う教室で、子どもが手を上げて質問する後ろ姿。
図2 英語で質問(※2)

翌30日には、博物館の子ども学芸員が台湾の人々と顔を合わせました。英語と中国語で自己紹介をし、台湾の文化や炭坑の様子を教わり、質問もしました※2。

2019年の教室での往復から5年後の2024年4月23日〜5月26日、博物館は、北海道の釧路市立博物館と台湾の新平渓煤礦博物園区との3館友好館協定締結を記念する原画展を開きました。田川の伊田竪坑から北の釧路、南の台湾へ移動した技術者の歴史を軸に、絵からそれぞれの炭坑の違いと似た点を紹介し、1,798人が訪れました※3。

会期中の5月25日には「北と南のヤマ」というオンライン・トークイベントを開き、19人が参加しました。2019年に猪位金学園の教室で話した龔俊逸さんが、台湾からビデオメッセージを寄せました※3。

田川市で親子が学ぶ|子どもが伝え、実物で炭坑を知る

三つ目の柱は、住む子どもが炭坑の暮らしを調べて人に伝え、親子で実物も体験することです。最初の23枚が「炭坑の子ども」だった町で、地元の子どもが絵を読む側、伝える側にも加わりました。

台湾の人々と顔を合わせた子ども学芸員の育成事業では、同じ2019年度、市内の5・6年生が点字と地図を作っていました。炭坑資料や記録画、伊田坑跡を調べ、6回の活動で展示資料の説明を点字にしたり、イラストや写真による史跡マップを作ったりしました。博物館をさまざまな人が利用しやすくする取り組みで、参加した子どもからは「とても楽しく学習できた」という感想がありました※4。

点字と地図/点字/史跡マップ。点字の説明札と史跡マップを机で作る子どもたちの後ろ姿。
図3 点字と地図(※4)

2023年度も、博物館は小学4〜6年生の子ども学芸員を募集しました。バックヤードの見学や炭坑の調べものをする連続講座で、目標の一つに「調べたこと、学んだことを、他者に伝える。」を掲げていました※5。

博物館では、石炭そのものも教材にしています。実際に燃やして独特のにおいや煙を体験する催しには、2024年5月5日に43人、翌2025年5月5日には38人が参加しました※3。

2026年の案内は、石炭が日々の燃料として使われなくなったいま、燃える石炭のにおいや煙を体験して昔の田川を想像してみよう、と書いていました。会場は博物館の復元炭坑住宅の前。日付は5月5日、雨天なら中止としていました。対象は「主に小中学生とその保護者ですが、どなたでも参加できます」です※6。

同じ2026年の夏休み、子どもたちはキャップランプを使って夜の博物館を探検しました。ランプを頼りに、炭坑内の薄暗さや採炭作業の大変さを疑似体験しました※7。

私の見立て|田川市は炭坑の暮らしの絵を頼んで集めた市

炭坑の暮らしを、どんな形で学べるようにしたか。

図書館は、炭坑の暮らしを知る人に彩色を頼んで絵を集めました。その絵は海を渡り、台湾の子どもが田川の石炭の掘り方を知る教材になりました。田川の子どもは、台湾から来た人に台湾の炭坑を尋ねました。地元の子どもは点字や地図で人に伝える側にも回りました。博物館では親子に石炭のにおいや煙を体験する機会があり、夏には子どもがランプで夜の暗さを探検しました。

私の見立てはこうです。田川市は、炭坑の暮らしの絵を頼んで集めた市です。

絵を頼んで集めた市/図書館/親子。博物館の展示室で炭坑の暮らしの絵を見る親子の後ろ姿。
図4 絵を頼んで集めた市(※1)

最初に図書館の職員が受け取った絵の題は「炭坑の子ども」。その受け渡しの日、1964年12月2日から、62年目の秋です※1。

田川市を数字で見たい人へ|学び・住まい・仕事の要点

暮らしの検討に使う情報を、ここにまとめます。催しや助成の内容は年度ごとに変わります。次回の募集や申請の前に、開催日、受付状況と条件を市や博物館へ確認してください。

博物館の入館料は、2026年10月号の案内では次のとおり。土曜日は高校生以下の入館料が無料です※8。

区分 入館料
一般 400円
高校生 100円
小・中学生 50円

人口の推移と数え方は田川市の人口ページで、町の基本情報は田川市のページで確認できます。

出典リンク集

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